名将列伝 畏れながら名将達の軌跡を纏めました。

幕末の万延元年(1860)、武士(幕臣)であり政治家であり思想家であった山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)は『武士道』を著しました。それによると「神道でも儒道でも仏道でもなく、神儒仏三道が融和した観念があり、中世以降もっぱら武家において明確に見られた。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と言う」とあります。当店は武士道精神を性生活に体現しようとする遠大な志をもって運営させて頂いております。

武田 信玄 忍 武田 信玄
情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いていた(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。 また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。 このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。
織田 信長 能 織田 信長
能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(豊臣秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。ただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。
徳川 家康 堪 徳川 家康
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、 こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。 勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。 及ばざるは過たるよりまされり」は有名。
豊臣 秀吉 気 豊臣 秀吉
徒手空拳で天下を取った日本歴史上、唯一の人物。 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」とも称せられる。また、非常にスケールの大きい「大気者」だった。
上杉 謙信 才 上杉 謙信
戦の天才で最高の指揮統率力があった。 越後の虎、越後の龍、軍神とも呼ばれ他国から要請されると秩序回復のため出兵。 武神、毘沙門天の信仰家。情報を重視し、軒猿という忍者を擁していた。
前田 利家 算 前田 利家
槍の名手。 信長とは衆道の仲であり、傾奇者の風潮を好み、喧嘩好きであった。 前田家の決済はすべて利家自身で行ったため、愛用の算盤が前田家家宝として残っている(算盤は当時の日本に伝わったばかりであり、それを使えるというだけで稀有な事であった)。利家は笄斬りによる2年間の浪人生活で金の大切さを身をもって知り、後年には「金があれば他人も世の聞こえも恐ろしくはないが、貧窮すると世間は恐ろしいものだ」とつねづね口にしていた。
伊達 政宗 食 伊達 政宗
政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、 もてなす事である」と言う名言を『命期集』に残している。この名言を崇める料理人も和洋中を問わず多い。 仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれている。
明智 光秀 妻 明智 光秀
他に類を見ないほどの愛妻家で正室の煕子が存命中はただの1人も側室を置かなかった。 婚約成立後、煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見事に見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた。
今川 義元 貴 今川 義元
公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護、さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていた。 それは家格の高さを示す事こそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりかたしなみの一つであったと言う説すらある。
真田 幸村 忠 真田 幸村
家康は大坂方の諸将の中で最も活躍した信繁(真田 幸村)に脅威を覚え、 大坂冬の陣の後には信繁の兄「真田信幸(後に信之)」に命じて信濃一国40万石で彼を調略しようとしてたが、 この破格の条件に微塵も関心を示さず豊臣家への忠誠を最期まで貫き通している。
島津 義久 将 島津 義久
家康に伏見城へ招かれたとき、義久は合戦での手柄話を乞われた。 義久は「弟たちや家臣団を遣わせて合戦し、勝利をおさめたというだけであって、 自分の働きなどひとつもない」と答え、家康は「自らが動かずして、 勝つことこそ大将の鑑よ」と感心したという説がある。
石田 三成 政 石田 三成
豊臣家奉行の筆頭格であり、 優れた行政能力を持った官僚であったという。「大一大万大吉」と記された紋を用いた。 「大一大万大吉」とは、「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる。
直江 兼続 義 直江 兼続
謙信の衆道の相手の1人と言われている。秀吉からの引き抜きの誘いを幾度も断るなど、忠義に厚い名将。利を捨て義をとった人。人こそ、組織の財産なり(名言)。生涯、側室を1人も持たなかった。
加藤 清正 築 加藤 清正
一般に智勇兼備の名将として知られているが、築城の名手としても知られる。 領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。結果、熊本県内には現在も清正による遺構が数多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用的に使われている遺構も少なくない。
山本 勘助 策 山本 勘助
武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられた伝説的軍師。実在については疑問視されてきたが、近年は複数の文書上から実在したと確認されている。晴信の軍略政略についての下問に対し、様々な治世の献策をした。優れた城取り(築城術)で高遠城、小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。天文20年(1551年)晴信は出家して信玄を名乗る。勘助もこれにならって出家して法号を道鬼斎と名乗った。

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